五つ子の魂百まで


 とある秋の日──
 リバーサイドの高級住宅街は庭木が色づき、乾いた落葉が風に飛ばされ、褐色の花吹雪のように舞い落ちていた。通りを奥に入ると、ことさらに古めかしい邸宅がある。
 琥珀色に統一された邸宅の居間では、法曹界で高名な弁護士、ジェローム・スウェインが久々の休暇を過ごしているところだった。
 老家政婦が運んできたコーヒーを飲みながら、溜まった手紙類に目を通す。その一通を読み終えた弁護士が、珍しく声を立てて笑った。
「まあ、どうなさったんですの?」
 怪訝そうな家政婦の問いに、弁護士は笑いながら答えた。
「いや、奇妙な依頼の手紙が来ていたものでな──」
「奇妙?」
「私に、5歳児たちの一日保父をしてくれというんだよ。セントラル・パークにピクニックに行くそうだが、危険があると困るから、付き添ってほしいと──」
「保父って……」
 老家政婦は、さらに小首をかしげた。高名な弁護士に、保父の依頼とは。いたずらか、宛先を間違ったとしか考えられない。「それで……どうなさるおつもりですか?」
「引き受けたいところだが、残念ながら当日は、朝から法廷だ。だが、まあ心配はいるまい。そう返事を書くことにしよう」
 高名な弁護士は、手紙を見ながら、いつまでも楽しそうに笑い続けた。


「ほら、シドニー、伸行ちゃん」
 家政婦の洋子の声が聞こえないのか、金髪の少年と黒髪の少年が走り回っている。地面を覆い隠すほどに降り敷いた金色の落ち葉は、乾ききっていて、少年たちの靴音を葉ずれの音の中に隠す。
 彼らの周囲に輪を描くようにして、一匹のコリー犬がじゃれついていた。金髪の少年のほうが背が高いが、それでもやっと愛犬を追い越した程度というところだろうか。
「にんぽーこのはがくれ!」
 黒髪の少年が、少女のようにも見える柔らかい頬をやや紅潮させ、数枚の枯葉をすくい上げて撒き散らす。
「『にんぽー?』」
 金髪の少年が、英語で聞きかえす。「なんだ? それ」
「ええと、日本の忍者が使っていた魔法……かな」
「『忍者』って、昔の日本のスパイだっけ?」
「そう。昨日、TVでやってたんだ。こう指を立ててね──で、にんぽーって……」
 黒髪の少年は、両手を握るように重ね、人差し指を立てた。が、当然のことながら、呪文を唱えても、何も起きない。「本当はね、ここで、はっぱが竜巻みたいになって、忍者が見えなくなるんだけど」
「へえ……。やっぱ修行がいるのかなあ」
 金髪の少年も真似するようにして人差し指を立てる。愛犬が、呆れ果てたように一言吠えると、眠そうに地面に寝そべった。
 洋子もかたわらのベンチに腰を降ろし、バスケットから毛糸と編み棒を取り出す。空は澄み渡り、柔らかな秋の陽ざしに包まれたセントラルパークは、日曜日ということもあってか、あちらこちらでピクニックをする家族連れの姿が目につく。
 早朝や深夜などは、治安に問題があるのだが、この時間なら、さほどの心配はいらないだろう。それに、5歳の幼児に、「じっとおとなしくしてろ」というほうが無理なのだ。 特に、シドニーは家でおとなしく積み木遊びをしているより、外で走り回っているほうが好きな活発な少年だ。隣同士の家で育ち、言葉を覚えるより先に友達になってしまった伸行も、シドニーに影響されたのか、家にいるより屋外で走り回っているほうが楽しそうだ。
(……奥さまと旦那さまが、あの状態なのに、伸行ちゃんが素直に育っているのも、シドニーのおかげだしね)
 洋子はそう思いながら、編み棒を動かした。ふとしたきっかけで、ニューヨーク駐在員一家である石田家に、住み込みの家政婦として働きだしてから、すでに5年が経つ。初めて石田家のドアをノックしたときから眼に見えていた石田夫妻の不仲が、離婚寸前でかろうじて留まっているのは、一人息子の伸行の存在ゆえだろう。
 両親の不仲で、家の中の空気は、冷たく、家政婦の洋子でさえ、居たたまれなくなることも多いのだから、せめて家を離れて公園で遊んでいるときくらいは、心おきなく遊ばせてあげたい──
 そんな思いで、編み物をしていた洋子が、ふと、顔をあげると──ふたりの姿はどこにもなかった。
「伸行ちゃん? シドニー?」
 洋子は、あわててベンチから立ち上がり、周囲を見回したが、さきほどまで少年たちが遊んでいた場所は、まるで木の葉隠れの忍術に隠されてしまったかのように、風が木の葉を撒き散らしているだけだった。


「おい、おとなしくしてるんだぞ」
 人相の悪い男Aが、拳銃をこれみよがしに、振り回した。
「子供に向かって『大人しく』と言うなら、その方法を教えてもらいたいもんだな」
 とても5歳児とは思えない口調で言い返したのは、藤色のセーターを着た少年である。「5歳から一瞬で、二十歳になる方法をね」
 辛辣な笑みをたたえた少年の眼光は鋭く、男Aの心の中まで突き刺さりそうだった。
「き、きさま……」
「ちょっと遼一郎」
 横からセーターの裾をひっぱったのは、幼児でありながら、なぜか退廃的な感じさえする美貌の少年だった。さらに不思議なことに、手首には包帯が巻かれている。「そんなこと言っちゃ、まずいよ」
「どこがまずいんだ? だいたい、拳銃で殺されようが、剃刀で自殺しようが、死ぬのは同じだろうが」
 遼一郎と呼ばれた少年が、落ち着き払って答える。包帯の少年は、黙り込むしかなかった。
「ちょっと、父さん、篤史をいじめないでよ」
 眼の大きな少年が、横から口を挟む。
「『父さん』?」
 男Aは仰天した。あの藤色のセーターを着た少年は、どう見ても5歳児でしかないが、もしかして実年齢はすでにAよりも上なのではないかと、思わせるような凄みがあるのだ。おまけに、こっちの少年が「父さん」と呼んでいるではないか──
「いわゆる、あだ名だな」
 藤色のセーターの少年が、小馬鹿にしたように鼻先で笑った。「バラの花は、他の名前で呼ばれようと、美しさは変わらない──名前とはそういうものだ。違うかね?」
「……そりゃそうだが」
 男Aは、たじろぎかけ、いやいかんと、無視することにした。ちなみに彼は33歳である。5歳児にバカにされているようでは、立つ瀬がない。
「とにかく、大人しくしていろよ」
 口では負けるので、態度で示すことにして、拳銃をつきつけていると、横で紅茶を飲んでいた別の少年が、顔をしかめた。
「まずい。安物のティーバックじゃ、僕の口に合わないよ」
 5歳児が眼鏡をかけていても、さほど珍しくはない現代だが、金の眼鏡チェーンをつけている5歳児は、めったにいないだろう。「それと、ジャムをつけてほしいね。できればバラのジャムがいいんだけど」
「バラのジャムだあ?」
 男Aは、食べたことはもちろん、見たことともない。いや、それよりも、このガキたちは、いったい、どうなってるんだ? 誘拐されて、銃を突きつけられているのに、誰ひとりとして怯えていない。
 普通は誘拐されたら──
 そう、誘拐なのだ。バラのジャムとかほざいたガキは、日本でも屈指の大企業、曽我部物産の御曹司らしい。
 そのためか、たかが幼稚園のピクニックで飛行機に乗り、はるばるニューヨークのセントラルパークまで来るという異常な大盤振る舞いなのだが、誘拐犯にとっては絶好のチャンスだった。
 治安の悪いアメリカなら、誘拐犯が日本人だと特定されにくいだろう。渡米費用の他に、カモフラージュのため観光バスに見せかけたバスを手配したりと、かなり費用がかかってしまったが、天文学的な身代金を考えれば、はした金だ。
 そして決行──騒がれると困るので、一緒にいたガキたちまで、まとめて、誘拐用に手配したマイクロバスに乗せてしたのだが──もしかしたら男Aは、とんでもないミスを犯してしまったのだろうか?
 子供のお守りをしたことはないが、変なガキたちばかりだ。子供にはお菓子を与えておくに限ると、山ほどクッキー類を用意したのに、喜んで食べているのは、あの眼の大きな、いちばんまともそうなガキだけで、他のガキどもは見向きもしない。
 それとも、男の知らないうちに、幼児の感覚が変わってしまったのだろうか? 男はやや途方に暮れながら、共犯の仲間が帰ってくるのを待つことにした。


「ねえねえ、きみ、忍者?」
 伸行の問いに、その少年は、しーっと唇に手を当てた。
「申し訳ありませんが、ちょっと黙っていてくれませんかな。曲者に見つかるとまずいので」
 古風な日本語で答えた少年は、おそらく今の日本でも珍しい、和服姿だった。袴もつけているので、ちょうど七五三の式場から抜け出してきたようにも見えるが、着崩れもしていないし、かなり着慣れている。
「曲者って?」
「あのバスですよ」
 和服の少年が指さしたのは、駐車場の端に停まっている観光バスだった。「拙者たちがぴくにっくをしてたら、変な男がやってきましてな。遠野センセまでが面白がってついていってしまったんですが、どうも良からぬたくらみをしているようで」
「……?」
 あまりに古風な言い回しのせいか、伸行は半分も理解できなかった。が、とにかく、あの観光バスが、なにか悪いことに使われているらしい、という意味だけはわかった。「遠野センセって……保母さんのこと?」
「ちがいます。拙者の尊敬しているお方です」
「……?」
 またしても良くわからない。が、伸行は、日本語がまるでわからないシドニーよりは、理解したはずだ。とりあえず、理解できた部分だけを英訳してシドニーに伝える。
「あのバスに悪者が乗ってるわけか?」
 シドニーは半信半疑ながらも、聡明さと意志の強さを感じさせる蒼い眼を、バスのほうに向けた。「窓のカーテンが閉まってるな」
 そのためバスの内部が見えないのが、子供ながらに怪しく感じたのだろうか。
「kidnap?」
 と言いかけて、口をつぐみ、腕組みをした。ちなみに、アメリカでは、小学校入学前の 4、5歳児を対象としたkindergartenという公立校があて、シドニーもすでに通っている。
 同級生の中に、両親が離婚して母親に引き取られた後、無理に連れ戻そうとした父親が誘拐罪で訴えられた経験のある子もいる。営利誘拐か、肉親による誘拐かは定かでないにせよ、誘拐事件だというのは、幼いながらに察しがついた。
 大人たちに救いを求めるのが最善の方法のような気もするが、うかつに騒いではいけないような気もする。
「どうしようか……」
 伸行が心配そうに表情を曇らせる。と、その足もとに、シドニーの愛犬ベスが、くーんと鳴きながら鼻をこすりつけた。
「なんだ、ベス。眠ってたんじゃないの?」
 とたんに伸行の眼が輝いた。
「ねえ、シドニー。ベスに頼めば」
「なるほど。手紙を書いてベスに運んでもらうんだな」
 シドニーはすぐに理解した。もともとベスは番犬として訓練を積んでいるので、そういった命令は忠実に実行してくれるのだ。
「ほう……。忠犬ハチ公にしては大きいですが、いい手かもしれませんな」
 伸行の日本語の説明を聞いて、和服の少年も、名案だとばかり手を叩いた。「あ、でも、拙者はまだ、ひらがなしか書けないんですが……。あ、それに鉛筆もなにも持ってないんですが……」
「あ、ぼくもだ……」
 ベスに頬をすりよせていた伸行が、シドニーをふりむいた。「シドニーは……」
「おれが持ってるわけないだろ」
 軽く舌打ちし、シドニーが周囲を見回す。絶好の散歩日和のせいか、セントラルパークの入り口付近は、次から次へと訪れる観光客で混雑しつつあった。
「あれ? シドニーじゃないか」
 金の巻毛を陽光に輝かせた少年が、おりしも一台のタクシーから降り立ったところだった。続いて、ややくすんだ金髪の少年と、黒髪の少年が降りてくる。
 これで全員で、大人の付き添いはいないようだ。
「ダニエル、友達か?」
 そう訊いた、くすんだ金髪の少年は、背が高いせいか、十歳くらいにも見えた。
「まあね」
 ダニエルと呼ばれた少年は、シドニーに軽くウインクした。「はあん、なるほど、彼がノブだね」
「あ……まあな」
 やや言葉を濁らせ、シドニーがあわてたようにダニエルに走り寄った。「余計なことは言うなよ」
「余計って?」
 くすくす笑ったダニエルが、連れの少年たちを振り返った。「紹介がまだだったよね。彼がデス──クラークで、こちらがトニー──アンソニー」
「デス(死神)?」
 不思議なあだ名に驚きつつも、シドニーが近づく。クラークと呼ばれた少年は、やや不機嫌そうに舌打ちしつつも、仕方なさそうに手を差し出した。
「断っておくが、おれはダニエルの単なる知り合いだからな。ここだって仕方なく来たんだし」
「友達だよ。ぼくはトニー。よろしくね」
 アンソニーが笑顔で手を差し出す。はっと驚くほどの美貌だ。
 いっぷう変わった握手の光景を始まる。それを、じれったそうに見ていた和服姿の少年が、伸行の肩を叩いた。
「率爾ながら、失礼します」
「はあ?」
 またしても知らない日本語に、振り返った伸行は、思わず叫ぶところだった。和服の少年が肩を叩くのに使ったのは、木製の鞘に入った──どう見てもナイフのようだ。いや、昨日見たTVで忍者が使っていた小太刀と言ったほうがいいだろうか。
「あの御仁たちが、どういう話をしているのか、手短に──。拙者、センセが心配で心配で。こうなったら、毛利家伝来の、この家宝の匕首で斬り込む覚悟ゆえ──」
「……は……あああの、ちょっと待って」
 伸行は、自分がTVドラマの中に入ってしまったような錯覚に陥るところだった。が、いちおう5歳とはいえ、あのドラマが昔の日本の話であって、現代のニューヨークの話ではなことだけはわかる。
 ここはニューヨークのセントラルパークだ。サムライの時代の日本ではない。
「ちょっと待って。いま、誰か書く物を持ってないか、訊いてくるから」
 焦りつつも、シドニーたちのほうへ走りだす。「シドニー!」
「なんだ?」
「書く物──ペンでも紙でも、誰か持ってない?」
「ああ──そうだったな」
 シドニーは不承不承といった感じで、ダニエルたちをふりかえった。「挨拶はあとにして、誰か紙かペンでも持ってないか?」
「ぼくが持ってるよ」
 アンソニーが小脇に持っていた小さなノートとペンを差し出した。「音楽用のノートだけど」 開いてみると五線譜を書くためのノートだった。他のページには、誰か大人の手で、なにかの音楽の譜面が書かれている。
「あ、じゃあ、一枚だけ、破っていいかな」
 そう断ってから、シドニーが一枚を破り取る。それを見ていたクラークが、伸行と和服の少年のほうへ視線を向けた。
「なにかトラブルでも?」
「……わかるのか?」
「なんとなく」
 クラークが軽く肩をすくめた。「やたらと、あのバスを気にしてるようだし」
「そうか……。実は、あの日本人の友達が誘拐されたらしいだ」
 シドニーが伸行たちを手招きする。「いまいち状況はわからないんだが」
「それなら、こんなところで集まってたら、警戒されるんじゃないか? 場所を替えよう」
 クラークの合図で、6人の少年と犬一匹は、ぞろぞろと歩き出したのだった。


「ほらよ、コーヒーと、コーラと、ソフトクリーム」
 人相の悪い男Bが、マクドナルドの紙袋を手にバスに戻ってきた。「ったく、ガキのくせに文句ばっかりなんだから」
「まあまあ、大事な金蔓だし」
 男Aが、紙袋を受け取りながら、仕方なさそうにたしなめた。
「だからと言って限度があるぜ。幼稚園児なら、ミルクでも飲んでりゃいいのに、紅茶だコーヒーだ? おれがガキのころは『大人の飲み物だから』って、飲ませてもらえなかったもんだぜ」
「たかがピクニックでニューヨークまで来られる幼稚園児だからな。まともな感覚じゃないんだろ」
 男Aの口調は、まるで自分に言い聞かせているようでもある。それもそのはず、男Bが買い出しに出かけている間、わけのわからない5歳児の会話に、頭を悩ませていたのだ。
「夕食はプラザ・ホテルから届けてもらえないかな」
「ぼくはオムライスがいいな」
「音楽が聴きたいところだな。シャンソン──コラ・ヴォーケルの『枯葉』はないかね?」
「ニューヨークで有名な画材店って、どこだろう?」
 4人の5歳児は、てんでんばらばらに勝手なことをほざいている。ぴーぴー泣き出さないのは、ありがたいところだが、知らない大人に誘拐されているのに、まるっきり怯えもしないのは、いったいなぜなんだろう?
「ええと、ソフトクリームは、誰だ?」
 とりあえず食い物を与えておけば、おとなしくしているだろうと、マクドナルドの袋をあけて、配ることにする。
「ぼく、ぼく!」
 眼の大きい少年が、元気よく手を挙げた。4人の中で、いちばん5歳児らしい──のだが、やはりどこか違う気がする。
「篤史、一緒に食べようよ」
「おれはコーラがあるから」
「そんなあ」
 見る間に大きな眼から涙がこぼれ出す。
「あ、わかった。一緒に食べよう」
「そう? じゃあ、あーんして」
 退廃的な雰囲気の少年が、仕方なさそうに、口をあける。このガキも変だ、と男Aは思う。比較的、静かなのはいいのだが、5歳にして、呼吸をするのさえ億劫だ、といった投げやりさなのだ。
「おまえがコーラだったな。ここに置いておくから」
 そそくさと置いて、紙袋に残っているコーヒーを取り出すと、男Aの気分はさらに暗くなった。
「マクドナルドのコーヒーか。インスタントのほうがまだマシだな」
 ちらりと、小馬鹿にしたような視線を投げ、紙コップを受け取った少年は、プラスティックの蓋を開けようともせず、窓のカーテンに手を伸ばした。
「おい、こら。開けちゃ駄目だって言っただろうが」
「そうかね? この季節にカーテンが閉まっているほうが不自然だと思うが」
「そ──そうかな」
 男Aは、心臓が止まるかと思った。5歳児に指摘されて気がつくなんて間抜けな話だが、警察に不審尋問されたら、どうしよう?
 だが、うかつにカーテンを開けたら、このガキどもの仲間や、引率の保母たちが、このバスにガキどもが乗っているのを目撃してしまうかもしれない。そうなったら、この計画は水の泡だ。
 男たちの計画は、つまるところ「灯台もと暗し」方式だった。誘拐犯一味と人質のガキどもが、このセントアルパークから遠く離れた場所に逃げたと警察に思わせてから、身代金交渉をする。もちろん電話は、もうひとりの共犯者Cが、シカゴからかけることになっている。
 身代金の受け渡しは、もちろん文明の利器を活用して、銀行振込を利用するのだ。世界中の提携銀行から引き落としができる銀行の口座を利用するから、引き落としは、遠い香港にいる共犯者Dが行う予定になっている。
 仲間たちで計画を立てたときは、「史上初のインターナショナルな誘拐事件かも」と、有頂天になったものだ。警察だって、国際間の協力体制を整えるのに時間がかかるから、すぐには動けまい。
 それなのに──まだやっと誘拐したばかりで、計画を頓挫させるわけにはいかない。天文学的な身代金を当てにして、これまでつぎこんできた多額の資金さえ無駄になってしまうではないか。
「うるさいな。何か訊かれたら、『バスに酔って休んでる人がいる』って答えりゃいいんだろうが」
 5歳児相手にムキになって反論してから、男Aは、本来の人質である眼鏡に金鎖の少年の席へと歩いた。
「ええと、きみの希望は、プラザ・ホテルの夕食だっけ?」
「もともとは、そこに宿泊する予定だったからね。でも、ぼくの好みからいえば、ラ・グルヌイユのフレンチのほうがいいかな。ル・シルクもいいし」
「ラ・グ……?」
 男Aはまた混乱に陥りそうになったが、この桁外れな金持ちさ加減が、身代金に繋がるのだと思うことにした。そうさ、一千万円だなんてケチな金じゃない、億単位での要求も可能なのだ。
「わかった、考えておくよ」
 愛想笑いを浮かべながら、男Aは腕時計を見た。ガキのお守りも楽じゃないが、あと少しの辛抱だ。あと数十分で、シカゴにいるCが、身代金要求の電話を、日本の曽我部家にかける予定なのだから──

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