10000Access Special

  WILD NIGHT

 ユアランド四丁目十番街──
 けばけばしいネオンライトに染まる安っぽい歓楽街の奥深くにあるゲイバー「WILD」は、看板屋が末尾の「E」を忘れたといういわくつきの店である。
 ふだんは、その夜の相手を物色する男たちが、冷凍ピッツアやハンバーガーをつまみ、安酒を飲んでいるだけだが、粉雪が舞い散る二月のその夜だけは、いつもと打って変わった異常な雰囲気に満ちていた。
「いったい、どうしたんだ?」
 クラーク・デラウエアが、よれよれのコートについた雪を払いながら奥のカウンターの座ると、ママが暗い顔で、壁際にあるテーブルを顎でしめした。
「雪でお客さんが少ないせいもあるけど……最大の原因は、あのお客さんたちよ」
 クラークが振り返ってみると、そのテーブルには、東洋系の男たちが三人座っている。
いちばん手前の男は、奇妙な、遠い昔に観たクロサワの映画風のいでたちをした長髪の男で、手に握っているのは、やや大型のナイフのようだ。
 いまは刃先が鞘におさまっているが、油断なく周囲に配る視線が鋭く、古代のサムライが現代に蘇ったかにも見える。
「……なんなんだ? 海外からの旅行客……って感じにも見えないが」
 クラークの問いに、ママが「さあ」と溜息をついた。その巨体から、もとはプロレスラーではないかと噂されているママだが、実はゴキブリを見ただけで卒倒するほど気が弱い。
「それがわかれば、こんなところで溜息ついてないで、さっさと追い出すわよ。でも、あの『カタナ』を持ってる男は、英語がわからないみたいなのよ。その奥にいる二人のうち、年かさのほうの男は、英語がわかるみたいだけど、なんかこう……不気味というか、怖くて。いい男なんだけどさ」
 ママが言っているのは、例のサムライ風の男の奥、壁によりかかるようにして座り、水割りを飲んでいる男のことらしい。年の頃は、クラークより上の、四十歳前後だろうか。
 東洋人にしては、背が高く、顔立ちも彫りが深いが、やや端麗すぎるせいか、東欧のドラキュラ伝説を彷彿とさせる。しかも、その目つきは、冷静すぎるほど冷静でありながら、サムライ風の男が握っているナイフよりも鋭く、空気を切り裂いている。
「なるほど……。ママが怖がるのも無理はないな」
「でしょう? それに、その向かい側の坊やも……手首を見てよ」
 ママが「坊や」と言っているのは、ドラキュラ風の男の向かい側に座った青年のことらしい。東洋人は若く見えがちだが、たぶん、サムライ風の男とたいして歳は変わらぬだろう。
 三十歳になったかならぬか──ゆったりとしたセーターを着ているせいか、華奢な肩を、よけい頼りなく見せている。やや伏し目がちにしているせいか、長いまつげが、細い鼻筋から唇にかけての微妙なラインに淡い影を落とし、けだるげな雰囲気を強調していた。
 しかも、セーターの袖で隠しているが、袖口からのぞいているのは、包帯ではないだろうか。折れそうなほど細い手首に巻いた包帯の白さが、水割りのグラスを動かすたびに、周囲のカンテラみたいな黄色い灯りに染まり、いまにも朱い血が滲みだしそうにも見える。
「……どういう関係なんだ? あの三人……」
 クラークは煙草をくわえ、謎の三人連れを横目で観察しつづけた。

「毛利さん、そんなに身構えなくたって、大丈夫だよ」
 篤史は水割りを飲みながら、その夜なんどめかの溜息をついた。「かつての美少年」が「ただの人」になるのも間近の二十九歳、いまはイラストレーターとは名ばかりの居候だが、いちおう「かつての美少年」だったころ、ボンボン育ちの曽我部綱彦のおかげで、何度か海外旅行は経験している。
 今回の旅行は、なぜか、零細出版社の斜陽社社長、監物が「昨年の秋に、息子の進路決定に一役買ってくれたお礼」にと用意してくれたものだった。タダで海外旅行ができると聞いて、喜んだものの、篤史は早くも、来るんじゃなかったと後悔していた。
 なにしろ、旅先が、ひと昔まえのニューヨーク並みに治安が悪いと悪名高いイーストリバー市なのだ。いや、それ自体はさほど問題ではないし、ゲイバー独特の猥雑な雰囲気も、篤史にとっては「昔取った杵柄」ゆえに平気なのだが、問題は、よけいな人物まで自費で同行していることだった。
「いいえ。いけません」
 匕首(あいくち)をいつでも抜けるよう、握りしめたまま答えたのは、毛利直樹である。古風な着流しに馬の尻尾みたいな長髪という、いつもながらのスタイルだが、海外に来てまでこの恰好に固執しているので、道行く人は必ず振り返る悪目立ちぶりだ。「拙者、なにも偏見はござんせんが、敬愛する遠野センセに万が一のことがあっては、世界的損失ですからね」
 毛利は、真顔で答える。どうやら、なにか勘違いしているみたいだ。
「別に、かまわんだろう。誰にも迷惑をかけているわけでもなし」
 そっけなく口を挟んだのは、超マイナーなミステリー作家、遠野遼一郎である。「強引にマイペース」主義は、日本だろうと海外だろうと、同じらしい。
 彼の昔からの友人である伊藤から、篤史がかつて聞いたところによれば、かつてニューヨークに留学していたことがあるそうだが、英語も堪能だし、治安の悪さも気にならぬのか、空港で旅客機を降りたときから、日本にいるのと同じマイペースぶりを発揮している。
「ほら、センセもこうおっしゃってるじゃありませんか」
 毛利が、したり顔でうなずき、匕首を握りしめた。「美雪ぼっちゃまが、ご同行なさってないのが、幸いでしたね。こんな悪漢の巣窟にお連れするのは、危険すぎます」
「美雪ねえ……。ちょうど学校が期末試験前で助かったよ」
 篤史はふたたび溜息をついた。成田空港まで見送りに来ていた美雪の眼に浮かんでいた涙を思い出す。
 とても遼一郎の息子とは思えぬほど、可愛い十五歳の少年なのだが……。たしかに、一緒に来てたら、危ないかもしれない。ただし、毛利の言う意味での「危険」なのではなく、なんでもかんでも興味を持ちすぎる性格ゆえの、危なっかしさだ。
 ことに「ゲイバー」に行く、なんて言ったら最後、「未成年は入れない店だ」と言っても、絶対についてくるに決まってる。
「いや、なにごとも経験だからな。試験前でなければ、連れてきたかったんだが」
 薄笑いを浮かべてそう言った遼一郎が、その切れ長の眼を、ふとカウンターのほうへ向けた。
「センセ、どうなさったんですか?」
 毛利が、すかさず、匕首の鞘に手をかける。
「いや──なんでもないが、あの男……」
「あ、さっき入ってきた背の高い男ですね。さすが遠野センセ。やっぱりお気づきでしたか。なんか、えらく、くたびれたコートとスーツを着てるし、ぱっと眼には、ただ『でかい男』って感じですが、全身から殺気が漂ってます。あれは、かなりの修羅場をくぐってると、拙者は見ましたぞ」
「ふむ……。まだ三十代半ばといった感じだが──」
 遼一郎は意味深長な薄笑いを浮かべている。
(……この変態サドめ……)
 篤史は内心、悪態をついた。遼一郎のイラストレーター兼愛人兼居候となって一年以上が経つが、遼一郎がこんな薄笑いを浮かべているときは、頭の中で良からぬたくらみを考えていることが多いのだ。
 つい数時間前、空港からホテルに到着した直後も、同じような薄笑いを浮かべたかと思うと、篤史をバスルームにむりやり連れ込み、強引に事を運んだではないか。おかげで、まだ全身がだるくて、力が入らない。
「この店の常連のようだが、後から連れが来るのを待っているようだな」
 遼一郎の視線の先にいる男も、くわえ煙草で、こちらをうかがっているようだった。
 たしかに、大男だ。西洋人としてもかなり高いほうに入るのではないかと思う。痩せ気味で、頬に肉がそげ落ちているせいか、飢えた狼を思わせる顔をしている。
 髪はダークブロンド。眼は、一瞬、灰色かと見えたが、次の瞬間には青色にも見える、不思議な色合いだった。くわえ煙草から立ちのぼる煙が、なぜかよく似合う──
 とてもゲイバーに来るタイプには見えないが、誰かを待っているのだろうか?
 篤史も興味を持ってながめていると、入り口から、また別の男たちが入ってきた。

「ここだよ」
 ダニエル・ドレイクがそう言ってドアを押したのは、「BAR AND GRILL」(食堂付きバー)のネオンの下に「WILD」と書かれた看板がかかった店だった。降りしきる粉雪が、ネオンライトの熱に溶けて、雫が落ちている。
「ここがゲイバーなわけ?」
 広瀬伸行は、とまどいながらも看板を見上げた。露骨に「ゲイバー」とは表示できないのかもしれないが、なぜ「WILD(粗野)」なんて名前にしたんだろう?
「オーナーは『WILDE』のつもりで注文したんだが、看板屋が間違えたそうだ」
 ダニエルの説明を聞いても、まだ伸行は首をかしげたままだった。東京の大学を中退する前に、いちおう英文学を専攻してたので、オスカー・ワイルドの名前だけは知っているが──
「ま、とにかく入ってみればわかるよ」
 軽くウインクして、ダニエルが「どうぞ」と伸行をうながした。「ノブをこんな所に連れてきた、なんてシドニーに知られたら怒られそうだが……ま、これも社会勉強だ」
「シドニーなんか、ほっておけばいいんだよ」
 ノブは、ややふてくされつつも、おとなしく中に入った。体中が冷え切っているので、早く温まりたい気分が優先したのだ。
 伸び放題に伸びているボサボサ髪も、風が強いのでマフラーの役目にならない。髪についた雪を払いながら中に入ると、冷凍ピッツァと安酒の匂いが混じった暖かい空気に、ほっと息をついた。
「シドニーも悪気があったわけじゃないと思うが」
 続いて入ってきたダニエルの声に「まあね」と、うなずきながら、周囲を見回してみる。照明はカンテラみたいな灯りだけで暗く、コンクリートを打ちっ放しにしたような壁が洞窟みたいだ。
 雪のせいか、客は少ない。テーブル席の奥にカウンターがあって、背の高い男がひとりだけスツールに腰をかけている。カウンターの奥で酒を準備してるのは、プロレスラーみたいに体格のいい──ムームーみたいなドレスを着て、カツラをつけてるが、男だろうか、女だろうか?
「ねえ、あの人は……その……」
「彼が『WILD』のママだよ」
 そう答えたダニエルが、まっすぐにカウンターのほうへ歩み寄った。「やあ、デス」
 ダニエルが呼びかけたのは、スツールに座っている男だった。とても親しげな感じだが、証券アナリストで、いかにも都会的エリートといった感じのダニエルの知り合いとは、とても思えない。
 ダニエルが輝くばかりの黄金の巻毛に、明るい青い瞳なのに対し、男はくすんだブロンドに、陰鬱な感じがする灰青色の瞳だ。伸行には、なぜか、その瞳の暗さが、世の陰惨さを見過ぎて色が褪せてしまったせいではないか、という気がした。
 しかも、「デス(死神)」だなんて──あだ名にしては、奇妙だ。
「会えて嬉しいよ。トニーは?」
 親しげなダニエルの笑顔に、くわえ煙草の男は、不機嫌そうに顔をそむけた。
「おれは、嬉しくないね」
 ハスキー・ヴォイスなのに、よく通る声だった。「……トニーなら、まだ大学だろ」
「金曜の夜なのにかい?」
「さあね。勉強が忙しいんだろ」
「ははん」
 ダニエルが、面白そうに笑うと伸行にウインクした。「とか言って、『もしかしたら来るかも』と期待して、ここで待ってるわけだ」
「うるさいな」
 男は、腹立たしげにつぶやくと、水割りをあおっている。「トニー」──どこかで聞いた名だ、と伸行は思った。
 いつだったろう? たしか、ニューヨークに、今晩みたいな雪が降ったころではなかったろうか。
 そうだ、ダニエルが、「長年片思いをしている男がいる」という話をして──それから、その男には恋人がいる、と言ったのだ。その恋人の名前が、たしか「トニー」……ということは、まさか、この男が──ダニエルの片思いの相手、なんだろうか?
「あの……ダニエル」
 思わずダニエルの肩をたたくと、ダニエルが、軽く肩をすくめた。
「せっかくのチャンスだから紹介しようと思ったんだが──どうやら、機嫌が悪いようだ」
「あの……じゃあ、まさか?」
「そう、彼だよ」
 ダニエルが微笑みながらうなずく。どう見ても、ダニエルが片思いするタイプには見えないが──というより、住む世界がまるで違うようにも思えるが……。
「君とシドニーだって、かたや日本の旅行代理店のアルバイト、かたやニューヨーク市警察本部の刑事だろ」
 まるで伸行の心を読んだかのようにダニエルが笑った。「幼なじみでなけりゃ、まるで接点がない」
「……たしかに……そうだけど……」
 なんとなくわかったような、わからないような気分で、伸行はうなずくしかなかった。そう──シドニーのことは、幼なじみだし、誰よりもよく知っているつもりでいる。
 だが、伸行が両親の離婚で日本に帰ってから約十一年も離れて暮らしている間に、互いの人生は大きく変わっていた。シドニーは陸軍士官学校に行き、湾岸戦争にも兵役につき、いまは二十七歳でありながら市警察本部につとめる警部補だ。
 いや、伸行がニューヨークに帰ってきて最も驚いたのは、シドニーが「自分はゲイだ」と告白した瞬間だったかもしれない。あのときは再会した嬉しさが優先していたが、いまごろになって、伸行は、とまどうことが多い。
(……ったく、シドニーのやつ……)
 シドニーへの八つ当たりもあって、ダニエルにゲイバーに連れてきてもらったのだが、よけい混乱しそうだ。
「ねえ、ダニエル、その可愛いお客さんは、どなた? 紹介してよ」
 カウンターの奥から、ママに野太い声を掛けられ、伸行は飛び上がりそうになった。
「あ、彼はノブっていって、僕の友達の友達……というか、思い人かな」
「ノブ、ね? よろしく」
 ママがごつい手を差し出した。「ふーん、誰かに思いを寄せられてるわけね?」
「あ……はあ。よろしく」
 握手の手を返したものの、ママの手は伸行の倍の大きさだ。伸行は、とりあえず落ち着こうと、周囲を観察することにした。
「ねえ? もしかして、あそこのテーブルに座ってる人たちって、ノブと同じ国の人じゃない?」
 ママに言われる前に、伸行は変な日本人が、三人、テーブルに座っているのに気がついていた。いや、「変」なのは、手前のひとりだけかもしれないが──
 どうみても、あれは、日本の和服だ。いわゆる「着流し」と呼ばれる袴無しの着方だが、伸行に匹敵するほどの長髪を、馬の尻尾みたいに後ろでくくってる。
 足には下駄を履いてるし、おまけに、手に握っているのは、短刀ではないか。さらに、彼の後ろにいる男ふたりも、異様な雰囲気をまとっていた。
 着ている物は、普通のセーターにジーンズなのだが──

「お、あの人、日本人じゃないですか」
 毛利が、素っ頓狂な声をあげて、カウンターのそばに立っている青年を指さした。
 膝に穴が空きそうな擦り切れたジーンズに、古着屋で買ってきたような色褪せたマウンテン・パーカといったいでたちだが、腰まで届く長い黒髪は明らかに東洋人のものだ。
 顔立ちは、少女のようは柔らかなラインで、十代にも見えるが──
「ねえ、ゲイバーでこういうことを言うのも野暮だけどさ、この国って未成年の飲酒に厳しいんじゃなかったっけ?」
 以前、大学生のころ、綱彦に連れられてサンフランシスコに行ったとき、レストランでさえ酒を頼もうとすると、いちいち身分証明書を見せろと言われたことを思い出して、篤史が遼一郎に尋ねると、
「童顔だが、二十歳は超してるだろう」
 遼一郎は興味深げに青年を観察しながら、そう答えた。「二十四、五歳か」
「そんな歳?」
 驚いて、篤史は思わず青年を見つめてしまったのだが、その視線に気づいたのか、知人らしき金髪巻毛の男と話し込んでいた青年が、こちらをふりむいた。
 やはり日本人のような気がするが、どうも毛利の姿を見て驚いているようだ。無理もないが──
 と、そのとき──
「Help! help……A robber!」
 ゲイバーのドアが開いて、甲高い声が響いた。「Stop him!」
 ドアから顔をのぞかせて叫んでいるのは、毛皮のコートを着た女のようだが──
 躊躇せず、さきほどの長髪の青年が走り出した。続いて巻毛の男が走り出す。
 毛利が匕首を握りしめて立ち上がった。
「センセ、なんて言ってるんですか?」
「『泥棒をつかまえてくれ』」
 遼一郎が水割りを飲みながら冷静に答えた。「おもての通りで、ひったくりにでも会ったんだろう」
「そりゃ、大変だ。拙者も助太刀してきます。センセは動かないでくださいっ」
 毛利が下駄を鳴らして走り出した。テーブルを飛び越え、あっという間に青年を追い越してドアに向かっている。
「……なんか、とんでもない捕り物になりそうだなあ」
 篤史も多少は野次馬根性が動いたが、まだ体がだるくて、立ち上がる気力もない。
 いっぽう、遼一郎は我関せずで、ゆったりと水割りの中の氷を揺すっている。
(この変態サドめ……)
 横目でにらみながら、篤史は心の中で悪態を繰り返すのだった。

「まあ、リタじゃないの」
 ママが驚いてドアのほうをふりかえった。
 ひったくりにあった、と叫んだのは、「WILD」を根城にしている男娼で、名をリタという。折れそうなほど細いうえ、いつも衿の高いドレスを着ているので、女性にも見間違える。いや、心は女性以上に女性らしいかもしれない。
「大丈夫か」
 クラークもスツールから降りて走り出した。すでにダニエルと、ダニエルがノブ呼んでいた東洋人らしき青年(少年か?)、それに、サムライ風の男がドアに向かっているが、ひったくり犯が拳銃でも持っていたら、危険だ。
「あ、クラーク! バッグを盗られちゃったのよ」
 リタがドアの前で腕をふりまわしている。その横を、サムライ風の男、ノブ、ダニエルの順で走り抜けてゆく。「犯人は、大通りのほうへ走っていったわ」
「××××!」
 サムライ風の男は英語がわからないらしいが、
「△△△△!」
 ノブとかいう青年が、通訳したようだ。ふたりでうなずきあうと、地上への階段を一足飛びに駆け上がり、粉雪がふりしきる通りを走っていった。
 続いてダニエル、一足遅れてクラークが続く。街灯も人影もまばらな通りは、積もった雪明かりで、底のほうだけが明るい。
 風に飛ばされた粉雪が、白い花のように舞い、走るたびにクラークの視界と鼻を塞ごうとするが、かまわず走り続けると、前方に、ひったくり犯らしき男の影が見えたような気がした。
 ──と、
「シドニーっ! その男、ひったくり犯だよっ」
 ノブという青年の怒鳴り声が聞こえた。
 ひったくり犯の影のさらに向こう、大通りから曲がってこようとする人影が見えたかと思う間もなく、その人影がひったくり犯の影に飛びかかった。

 大通りの角から曲がってくるストレートの金髪が見えた瞬間、伸行は思わず叫んでいた。
 一瞬にしてシドニー・ホプキンスだとわかったのは、幼いころから兄弟のように過ごした歳月に培った勘だったかもしれない。
 次の瞬間、シドニーの足は地面を蹴り、ひったくり犯に飛びかかっていた。そして五秒後には、決着がついていた。
「忘れてた。おれ、この街じゃ、逮捕権はないんだよな」
 そう言いながら、ひったくり犯の腕をねじ上げたまま立ち上がったシドニーは、取り返したバッグを、伸行に放り投げた。「ったく……。旅先に来てまでガキのお守りをしなきゃいけない上に、仕事までしなきゃならないとはな」
「ガキで悪かったな」
 伸行はむくれつつも、バッグを受け取る。女性物の小さなバッグだから、きっと先ほどの女の持ち物だろう。「逮捕権がないってことは──どうなるわけ?」
「所轄の分署に突き出して、逮捕してもらうか。被害者は?」
「あ、えーと『WILD』に……」
 うっかり答えてしまってから口を押さえても、もう遅い。シドニーの蒼い眼が伸行から、ダニエルへと向けられた。
「おい……ダニエル」
「おっと、僕を怒るのは筋ちがいだと思うよ」
 ダニエルが両手を挙げて制止ながら、あっけらかんと笑った。「つまり、これも社会勉強の一環として」
「バカ野郎、なにが社会勉強だ」
「そうかな、シドニー? 君も社会勉強が必要かもしれないなあ」
 ダニエルが伸行にウインクした。「ねえ、ノブ。たかがホテル側の手違いで、予約したツインがダブルに変更になったくらいで、おたおたして、あわてて別のホテルにもう一部屋取るなんてさ」
「そうだよ」
 伸行は、思わぬ味方を得た気分で、うなずいた。「あのダブルベッドだって、二人には充分すぎるくらいに広いのにさ。雑魚寝したら、五人くらい眠れるよ」
「あのなあ……そーゆー問題じゃ」
 シドニーが怒鳴ろうとしたはずみで、腕をつかまれていた、ひったくり犯が悲鳴をあげた。
「いてっ……! 旦那がたあ、なんの話か知りませんけど、おれをどうする気なんですか?」
 ひったくり犯は、なにやら情けなさそうに顔をしかめている。
「あ、すまん。だからだな、えーと最寄りの分署に連れていく……そうだ。だから被害者も呼んでこないと」
「そりゃ、無理だな」
 煙草に火をつけながら、興味深そうに見ていたデスとかいう長身の男が、口をはさんだ。「リタ──被害者は警察に行きたがらないだろう」
「リタ……? あ──そうか」
 シドニーがうなずいた。「まあ、ひったくりは親告罪だし、おれにも逮捕権はなし──面倒だなあ」
「『WILD』に連れていったら、どうだ?」
 男が、くわえた煙草で背後のほうを示した。「リタに、気の済むまで顔を引っ掻かせれば、充分だろう」
「顔を、引っ掻かせる?」
 ひったくり犯が、青ざめた。「そんな……旦那がた勘弁してくださいよ。警察のほうが……」
「うるさいな。問答無用。じゃあ仕方がない。『WILD』とやらに戻るか」
 シドニーが、ひったくり犯の腕をねじまげたまま、大股で歩き出す。
「……率爾ながら、お尋ね申しますが」
 しきりに首をひねりながら見ていた着流し男が、短刀の束で伸行の肩をたたいた。「通訳してくださいよ。なにがなんだか、拙者にはさっぱりで」
「あ、えーと……」
 あまりにも古い日本語が出てきたので、伸行はとまどいつつも答えた。「とにかく、『WILD』に戻るみたいですよ」
「あ、そうですか」
 着流し男がうなずいて、「やれやれ」と短刀をひっこめた。「そのほうが拙者も、遠野センセの元に戻れるし、ありがたいですな」
「……はあ?」
 伸行は混乱しそうだった。もしかして、日本から離れている間に、歴史的異変でも起こったのだろうか?
 とりあえず、ぞろぞろと集団で「WILD」への道を引き返す。
 WILD──なぜゲイバーの名前がWILDなのか、またリタとかいう被害者の女性が、なぜ警察に行きたがらないのか、わけがわからないが、とにかく今夜は、wild(騒乱の)一夜になりそうなのは確かだった。

 そのころ「WILD」では──
「じゃあ、みんな、そのひったくり犯人を取り押さえに行ったわけか……」
 黒髪と緑の瞳の美しい青年が、カウンターでリタと話し込んでいることろだった。
「そうなのよ。トニーは、すれ違わかなかったの?」
「あ……僕は、先にデスのアパートに寄ってから来たから」
 トニーと呼ばれた青年が、やや、はにかんで答えた。「裏の路地から来たから、すれ違いになったみたいだね」
「あ、なるほど……」
 リタが、おかしそうに笑った。「まず最初に、デスの顔を見たかったのね。ねえ、トニー、いつまでも意地を張って別居なんかしてないで、帰ってきたら?」
「そうしたいんだけどさ……」
 青年が黙り込んで、うつむく。
 それを、少し離れた壁際のテーブル席から見ていたドラキュラ伝説を彷彿させる男が、意味深な笑みを浮かべて言った。
「この店は、なかなか面白いな。次から次へと、いわくありげな連中があらわれて」
「遼一郎……」
 退廃的な美貌の青年が溜息をついた。心の中で、
(この変態サドめ……)
と、悪態をつきながら──

♪THE END♪

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禁・無断転載 柏枝真郷